半年前,好友鼓勵我寫詩。平時幾乎沒有閱讀詩,加上自覺詞窮,
作品中多次出現傷痕和血,抗病過程中的辛酸都藏在詩中,
其中一首詩,有我的名字出現。
「縈繞不散」。
其實沒什麼特別,「
小時候常常有人不懂唸或唸錯我的名字。
有人說名字很有意思。一個祈求幸福的名字,
一想到祝福我的人就是給我童年創傷的人,
學生時代看到別人家庭相處融洽,
文字本身沒有錯,只是我配不上這個名字。
《鬱生花》其中一首詩讓我再思考過去的經歷與自己的關係。
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《當下》
感受當下
才能記得曾經擁有
不論是你感激的
或是你抗拒的
都是當下的自己
下一秒的未知
就期許它的來臨
但必須銘記
擁抱當下
才能靜候未來
並紀念昨日的曾經
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沒有人能徹底抗拒過去,因為那是形成當下的自己的重要部份。
《鬱生花》裡另一首詩《恐慌的邊緣》中的一段提醒了我,
即使
又一次落空
千萬要記住
溫柔的
與自己說聲
晚安
祝福落空了,更要對自己溫柔,令自己相信值得被祝福。
或許我永遠不能愛上自己的名字,但我會擁抱和感受它,告訴自己,
半年前、友人に詩を書いてみるよう勧められました。普段ほとんど詩を読むこともなく、語彙が乏しい自覚もあるので、自分の作品を公にするには少し勇気が必要でした。そんな中、ふと思い立って一冊の詩集『鬱生花』を買いました。長年うつ病と闘ってきた香港の若い詩人が書いた作品です。
その作品には、傷跡や血といったモチーフが何度も登場し、病と向き合う過程の苦しさが詩の中に込められています。彼が多くの痛みや悲しみを背負っていることが伝わってきました。(私の理解は、きっとそれくらい浅いものですが……)
その中の一篇に、私の名前が出てきました。
「縈繞不散(まとわりついて離れない)」。特別な意味はないと思いますし、「縈」という字は文学の中で珍しくもありません。でも、自分の名前を見かけると、いつも複雑な感情が浮かびます。
子どもの頃は、よく名前を読めない人や読み間違える人がいました。中学時代には、先生から「いい名前だね。先生が読めなければ指名して質問できないから」と言われたこともあります。(でも逆に、一度覚えられたら印象深くなるのでは……と思ったりもします。)
名前には意味があると言われます。幸せを祈るような名前は、聞く人に祝福の印象を与えるでしょう。でも私にとっては皮肉なものです。
なぜなら、その「祝福」を与えたのは、私に幼少期の傷を与えた人だからです。名前が呪いのように感じられます。嫌いとまでは言いませんが、素直に受け入れることができません。
学生時代、周りの家庭が仲良く過ごす姿を見たり、シングルペアレントの友人が案外穏やかに暮らしているのを知るたびに、人を羨ましく思い、同時に「私は幸せになる価値がないのではないか」と疑ったこともあります。
言葉そのものに罪はありません。ただ、私がこの名前にふさわしくないだけなのです。
『鬱生花』の一篇が、過去の出来事と自分の関係をあらためて考えさせてくれました。
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『当下(今)』
今を感じることで かつて持っていたものを思い出せる
それが感謝の対象でも 拒絶したいものでも
それは今の自分自身
次の一秒がどうなるかはわからない
ただその到来を願えばいい
でも忘れてはならない
今を抱きしめること
そうすれば未来を静かに待ち
昨日の過去を記憶できる
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誰も過去を完全に拒むことはできません。なぜなら、それは今の自分を形作った大切な一部だからです。名前は過去を背負い、現在とともに未来に向かって進んでいきます。今この瞬間への意識を持つことで、その名前が自分に与えてきた意味をもう一度考えられます。そして、未来に穏やかに向き合うことで、その名前を背負ってこれからも歩む勇気を持てるのです。
『鬱生花』の別の詩「恐慌の縁」にある一節は、私に「自分を優しく扱うこと」を思い出させてくれます。
たとえまた願いが叶わなかったとしても
どうか忘れないで
優しく自分に「おやすみ」と言ってあげること
祝福が叶わなかった時こそ、自分に優しくし、自分が祝福される価値のある存在だと信じることが大事です。だからこそ、私は人に優しくすることを、自分からの祝福だと考えています。名前は過去の痛みを何度も思い出させますが、それと同時に、他人にも自分にも優しくすることの大切さを教えてくれます。
きっと私はこの名前を心から好きになることはないでしょう。それでも、抱きしめ、感じ、そして自分に言い聞かせます――これは私の人生の一部であっても、私のすべてではないのだと。
