《身份的沈默

早前和同事聊天時,他好奇地問我為什麼來英國生活。我突然語塞,竟然說不出任何理由,甚至心裡也想問自己:對啊,為什麼我在這裡?

我想嘗試從香港的歷史或政治開始解釋,但總覺得英國人會不理解。有時連自己也懷疑這些歷史和政治原因,並不足夠成為我來英國生活的理由。
在英國生活了幾年,工作上也經常跟英國人交流,應該早就料到有一天會被問到,但我從來沒有準備好答案。或許我害怕的,不是要向別人交代,而是要對自己的選擇負責。
回想離開前我抱著什麼想法和心情離開,只有幾年,好像已變成遙遠得觸不及的記憶。如今那記憶變得模糊,而且只能用沉默掩飾模糊。面對問題帶來的沉默,可能是我不想面對一個可能性:我沒有離開香港的合理原因。但我知道我還是要開口說些什麼,正當想回應時,同事接著問我為什麼不去加拿大、澳洲之類,還說:This country is horrible (笑)
我不能代表所有移英的香港人,但我知道,我並不是唯一一個覺得自己其實沒選擇的人。
有時在網上看到移英港人抱怨英國,懷念香港的生活,以前我會覺得他們不知足。漸漸地,我開始認同了這些抱怨心態。
然後我只能心裡回應問題背後的一個事實:
其實我沒有很喜歡英國。


在與英國人交流時,我總是為我們沒有共同回憶與背景而感到疏離。那疏離感讓我再次想起了《生命中不能承受之輕》的薩賓娜。她離開捷克,愈走愈遠,最後留在美國。熱愛自由的她,不是應該愛一個自由國度嗎?她卻寧願死後化灰,也不想埋在沒有自己的根的地方。即使一生都在逃避作為捷克人的身份,她還是無法擺脫過去與自己的連結。
我不能否認自己想念香港。那裡有我的家人和朋友,也有很多永遠無法取代的回憶。
然而,同樣殘酷的是,在香港生活要面對政治和文化變化,留在香港也只能默默接受。
每次腦裡浮起想回香港的念頭,我便會想像未來的香港,還有將來的自己。熟悉的語言與文字都消失時,我大概會變麻木,跟身邊的人一起接受現實。而我不想看著香港變得陌生,連自己也變成跟將來的香港一樣。這想法,是逃避還是抵抗的方法,我已經分不清。但在這幾年,我發現了一件難以承認卻不能逃避的事--無論如何逃避或抵抗改變,也難以保持原本的自己。

為了從迷惘中歇息,偶爾我會天真地幻想,要是我能選擇地方,我會想留在哪裡生活。我想起台灣和日本,至少離香港近一點,隨時可以回去跟家人朋友見面、狂吃蛋撻和叉燒飯然後我愈妄想就愈確認自己的心,從來沒有離開過香港。有朋友曾經問我,是否習慣了英國生活,到了現在我還在思考習慣的定義。我的身體適應了這裡的天氣?有穩定工作?有新朋友?如果我的心不歸屬於英國,我能肯定自己習慣了嗎?
或許,我恐懼著我那顆不安定的心,如薩賓娜一樣,
只能漂泊,永遠不能把自己安放在屬於自己的地方。即使如此,我希望不讓恐懼讓我卻步,在迷失中仍尋找自己的安身之處。

(本來想再修改一下文章,但寫得很痛,最後決定把痛丟下就好。原諒我的逃避)


《アイデンティティの沈黙》

先日、同僚と雑談をしていたとき、彼に「どうしてイギリスで暮らしているの?」と聞かれた。
その瞬間、言葉に詰まり、理由を何ひとつ口にすることができなかった。心の中では、むしろ自分自身に問い返していた――そうだ、私はなぜここにいるのだろう。
香港の歴史や政治の話から説明してみようとも思ったが、イギリス人にはきっと理解されないだろうと感じてしまう。時には、自分自身でさえ、それらの歴史的・政治的な理由だけでは、ここで暮らす理由として十分ではないのではないかと疑ってしまう
イギリスで暮らして数年が経ち、仕事でも日常的にイギリス人と接している。いつか必ずこの質問をされるだろうと分かっていたはずなのに、私は一度も答えを用意できていなかった。もしかすると、私が恐れているのは他人に説明することではなく、自分自身の選択に責任を持つことなのかもしれない。


出発する前、どんな思いで、どんな気持ちで香港を離れたのか――たった数年前のことなのに、今では手の届かないほど遠い記憶になってしまった。その記憶は次第に曖昧になり、私は沈黙でその曖昧さを覆い隠すことしかできない。問いかけによって生まれる沈黙は、もしかすると、私が向き合いたくない一つの可能性を避けているからなのだろう――私は、香港を離れるための「正当な理由」を持っていなかったのかもしれない、という可能性だ。
それでも何か言わなければと思ったそのとき、同僚は続けてこう言った。「どうしてカナダやオーストラリアじゃなかったの?」そして冗談めかして、「This country is horrible(この国はひどいよ)(笑)」と。
私はすべてのイギリス移住の香港人を代表することはできない。でも、自分が「実は選択肢がなかった」と感じているのは、私一人ではないと思っている。
以前は、ネットでイギリス生活を愚痴り、香港を懐かしむ香港人の投稿を見るたびに、「贅沢だ」と感じていた。だが、いつの間にか、私はその不満の気持ちに共感するようになっていた。
そして、心の中でしか答えられない一つの事実に辿り着く。
――実のところ、私はイギリスがそれほど好きではない。


イギリス人と交流するたびに、私たちの間に共有された記憶や背景がないことを痛感し、そのたびに疎外感を覚える。その疎外感は、『存在の耐えられない軽さ』のサビーナを思い出させる。
彼女はチェコを離れ、遠くへ遠くへと移動し、最終的にアメリカに留まった。自由を愛した彼女なら、自由の国を愛してもよさそうなものなのに、彼女は死後、灰になっても、根を持たない土地に埋葬されることを拒んだ。
一生、自分がチェコ人であるというアイデンティティから逃げ続けた彼女でさえ、過去や自分自身とのつながりから逃れることはできなかったのだ。
私も、香港を恋しく思っていることを否定できない。そこには家族や友人がいて、決して代わりのきかない思い出がある。
しかし、同じくらい残酷なのは、香港に留まれば、政治や文化の変化に向き合い、ただ黙って受け入れるしかないという現実だ。
香港に戻りたいという思いが頭をよぎるたび、私は未来の香港と、将来の自分の姿を想像してしまう。慣れ親しんだ言語や文字が消えていく中で、私はきっと無感覚になり、周囲の人々と同じように現実を受け入れていくのだろう。
でも私は、香港が見知らぬ場所に変わっていくのを、そして自分自身も未来の香港のように変わってしまうのを、見届けたくはない。
この思いが、逃避なのか、それとも抵抗なのか、今の私にはもう分からない。ただ、この数年で、認めたくはないけれど避けることのできない事実に気づいた――どれほど逃げても、どれほど抵抗しても、元の自分のままでいることは難しいのだ。


迷いの中で息をつくために、私は時折、無邪気な想像をする。もし自分で住む場所を選べるのなら、どこに住みたいだろうか。台湾や日本が頭に浮かぶ。少なくとも香港に近く、いつでも家族や友人に会いに帰れるし、エッグタルトや叉焼飯を思う存分食べられる。
そんな空想を重ねるほど、私は自分の心が一度も香港を離れていないことを、はっきりと自覚していく。
友人から「もうイギリスの生活に慣れた?」と聞かれたことがあるが、私は今でも「慣れる」という言葉の定義を考え続けている。
体はこの気候に適応したのか。安定した仕事があるのか。新しい友人ができたのか。
もし心がイギリスに帰属していないのだとしたら、私は本当に「慣れた」と言えるのだろうか。
もしかすると私は、サビーナのように、決して自分を安住させる場所を見つけられず、漂い続ける不安定な心を恐れているのかもしれない。
それでも私は、その恐れに足を止めさせたくない。迷いの中にあっても、なお、自分が身を置ける場所を探し続けていたいと思っている。

(本当はもう少し文章を手直ししようと思っていた。でも書くのがあまりに痛くて、最後にはこの痛みを置き去りにすることにした。私の逃避をどうか許してほしい。)

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